2017.12.19 Tuesday

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2017.12.19 Tuesday

診断を越えた先の社会

教育や福祉の現場では〜するのは障害特性か?わがままか?診断の有無の見分け方は?という質問が多いです。


これは「診断」があれば無理にさせないでよい、しかし「わがまま」であればがんばらせるという支援者側の支援に対する不安のあわわれであるように思います。


「診断があるかかどうか」によって確かに支援制度の上での扱いは変わります(一定の線引きはないといけないから)。しかし、すでになんらかの教育や福祉などの支援を受けている人に対して、有効な心理社会的支援を考える場合、それは診断の有無から決まるのではなく、「本人の特性(診断はこの情報の一部)とその特定の行動が生じ・維持している環境要因」によって決まってくるのだと思います。


診断ベースの〇〇療法や△△プログラムなどの効果に関する心理社会的アプローチのエビデンス研究さえ、その人にぴったりの支援を提供してくれるわけではなく、そういった診断のある人の支援に関する大体の方向性を示すにすぎません。


確かに診断は支援の手かがりではありますが、あくまで手かがりの一部でしかないのです。診断があってもひとり一人のアセスメントが必須であり、逆に言えばひとり一人のアセスメントがきっちりしていれば診断の有無には大きな意味はなくなると思います。


成人の方の中には、自ら「診断」を求め、「診断があることで自己肯定できる、周囲にも責められなくてすむ」という方もいます。


発達障害の理解や支援の広まりは望ましいことですが、それが「診断の有無」によって困っている人々を二分することにつながり、いわゆるボーダーの人たちを生きにくくする社会にしてしまってはいけないと感じています。


障害のある人の生きづらさの理解と支援方法の普及が、診断にかかわらず困難を感じている人への「環境の工夫や配慮への気づきと理解」になることが、やがて社会を変えることになると考えています。


例えばASDのある子どもの偏食指導において有効なプログラムが、診断のない偏食の子どもの食事指導にも有効であったり、そもそもの食事指導のありかたや考え方そのものを変えていけたりするように。

井上雅彦 | - | 17:56 | comments(3) | trackbacks(0)

2016.11.27 Sunday

障害特性の理解と支援から個への理解と配慮へ

日本発達障害ネットワーク年次大会12月4日のシンポジウムでの話題提供の要約です。

発達障害のある人とその家族が、社会の中で幸せを感じながら生活していける環境を作っていくことは、うつや認知症、事故や病気による後遺症など我々だれもが遭遇する可能性のある困難を軽減できる文化や価値の多様性の構築につながっていく。

発達障害に対する理解が広まっていく一方で、障害とは何かということについて考えさせられる出来事もある。例えば、24時間テレビにおける障害の報道のされ方や障害のあるコメディアンが自らの特性を笑いのネタにすることについての論議などである。私はこのような論議が、私たちの社会が障害というものを理解していく上で重要なプロセスだと思う。

多くの人の障害のある人のイメージは「困っている人」というイメージが強いように思う。しかし、例えば自閉症のある方のすべてがその特性のために、起きている間中ずっと困難を感じているわけではない。好きな活動があり、それに没頭できる環境では、時として私自身うらやましさを感じてしまうほど、彼らは生き生きとしているようにみえる。一方、環境が変化したり、苦手な刺激があったり、自分のペースではなく他者や集団のペースに合わせて苦手なことをしなければならなかったりすればその様子は一変するのである。

WHOのICFによる障害の考え方は、このような環境要因による社会モデルと個人要因による医学モデルを調和させたものである。最近、私はご本人に自閉症の障害を説明する時、「体質」ということばをよく使う。例えば、「周囲の刺激に対して敏感に反応してしまいやすい体質」、「環境変化やネガティヴな体験に反応してしまいやすい体質」であることを理解していただく。次に「体質だから、疲れが溜まったり、変化が多い時期や環境では症状が出やすくなるから、予測してうまく防衛したり、周りとうまくやっていく工夫を考えていきましょう」、という具合である。

「特性」を理解して支援しましょうという場合、多くの人々に理解してもらうことが困難な行動は、他傷や他害などの「行動障害」と言われる行動である。私は行動障害に対する支援者研修の中では、支援者を感情的にしてしまうこれらの行動が、どのような刺激や環境によってもたらされ、どのような結果によって維持しているのかを学んでもらうようにしている。これは行動分析学の「機能分析」という考え方であるが、「特性」というものが「個に内在するもの」ではなく、「環境との相互交渉によって生じるもの」であるという理解をしてほしいと願うからである。こういった意味で行動分析学による行動の理解の視点は有用である。

自閉症という障害は、我々が快適と感じる刺激や普通に過ごせている環境に対して、困難が生じてしまいやすい体質の状態であって、その程度は一人ひとり異なっている。自閉症というものは我々が社会的支援の要請に応じて線引きした「仮説構成概念」であるから、「すべての自閉症のある人にとって良い環境」というのは存在しない。もちろん特性に基づく啓発や環境整備は最初のステップとして必要なことであるが、これはあくまで歩行が困難な人たちに対して、許容できる段差は何センチと定義するようなものである。特性に対する支援とは、正確には「かなり多くの自閉症のある人に対するよい環境」であるということを認識すべきであり、最終的には極度な感覚過敏性や行動障害のある方といったマイノリティの理解へ、つまり個の理解と支援に向かうべきである。

自閉症をはじめ発達障害のある人の困難は環境や体調だけでなく成長によっても変わっていく。自閉症の特性に配慮した環境作りは、最終ゴールではなく、「合理的配慮」として個人やその時のその場面に対する支援を加えていく必要がある。個に対する支援を「合理的配慮」と言い換えることによるメリットは、「選択と決定」、「合意形成と見直し」というプロセスが重視され、支援が「与えられるもの」から「個人が選択するもの」という個人にとって主体性のある状態として強調される点にある。

医学モデルに基づいた障害特性に対する理解と配慮から、個人に対する理解や配慮へと進んでいくことが、我々が障害種を超えて他者を理解し、互いを尊重できる社会へ向けての課題となるのではないだろうか。

井上雅彦 | - | 14:40 | comments(0) | trackbacks(0)

2016.11.17 Thursday

行動障害支援におけるPDSのための手順

試案です
1. 行動障害のある人への一貫した個別的な支援、合理的配慮の必要性を職員で共通理解する
2. なぜその支援が必要なのかを各職員が共通理解する
障害特性の理解に基づく一般的な ASD支援とその人に必要な支援の 説明。
3. 最初から完璧な手続きではじめないで、他の職員も実行しやすいステップから支援目標を設定する
スタッフ全員参加でアイデアを出す
教材作りをサポートする。
4. それぞれの職員が支援手続きに関する情報の周知をしやすくするための工夫
全体の支援情報の周知を掲示板で
実際に支援をする場所に特定の支 援の手がかりを掲示
うまく実行できたかのチェックも
5. 統一した支援による効果をフィードバックする
結果をフィードバックする
成果をスタッフで共有する
問題点があればアイデアを出し会う
外部からの評価
6. 職員が指示通りに動かない場合
個別の支援計画に従うことの意義 を上司から説明
定期的なスーパービジョン
職員を孤立化させないように
愚痴を言える雰囲気や場を作る
定期的なミーティング

井上雅彦 | - | 20:47 | comments(1) | trackbacks(0)

2016.11.13 Sunday

ペアレントメンターが自分の体験を語ることの意味

ペアレントメンターの役割として、以前までは、傾聴と共感、地域の情報提供と二つをあげてきた。しかし、メンターの体験を聞きたいという相談者の親御さんからのニーズもあり、三番目に「自分の体験を語る」をその役割の一つとして最近考えはじめた。
しかし、自己体験の語りはメンターの「最後の決め技」であり、傾聴や共感ができていることが前提である。

聴くことがまずできなければ相手の求めているものも理解できず、話したいことを話すだけでは相手に伝わらないことも多いからである。

また、すべてのメンターが相手のニーズに合わせて、自分の体験を話せるわけではないし、それを無理にやらなければいけないわけでもない。

体験を言葉にすることで、忘れていた当時の感情が蘇ってくることはよくあることであり、今はもう大丈夫と思えていたことが、思いのほか辛くよみがえってきたりすることに注意しなければならない。

体験を言葉にして、あらためて眺めてみて、スッキリした。体験の整理ができた、というメンターが多いことは救いであるが、支援者はこのようなメンターの体験過程をより慎重に理解し、丁寧に支援していかなければならない

まず体験を話せるためには、今が安心な状態にあることが必要である。

その上でそれぞれのメンターが無理せずに自分の話しやすい体験を選択し、支援者や他のメンターに聴いてもらい、整理しながら文字化し、何人かで、そして自分でも読んでみて、再整理する、といったスモールステップのプロセスが必要であろう。

また、体験を聴く側のインパクトはメンター本人が感じているよりも大きいことにも注意すべきである。

インパクトが大きいだけに、聴く側はその体験を一般化しがちになるからである。

できれば複数のメンターから同じテーマで聴けるような環境をアレンジすることが望ましいと思う。

まだまだ私自身も慎重に、そして真摯に学んで行かなければならないと思う。

井上雅彦 | - | 22:26 | comments(0) | trackbacks(0)

2015.09.06 Sunday

強度行動障害のある人へのグループホーム生活支援

福岡市にある「かーむ」という障がい者行動支援センターを見学させていただきました。「かーむ」は強度行動障害のある方のグループホーム生活の支援のために今年度開設されました。


24時間の見守りで3ヶ月という決められた期間の中で行動障害の改善をはかり、グループホームでの生活スキルを学習し、最終的には地域のグループホーム生活に移行し、適応できることを目指します。


福岡市の強度行動障害研究会によって、専門的な支援が得られるというメリットがありますが、移行先の確保や協力体制の構築が目下の課題ということでした。今後の事業の発展が期待されます。

井上雅彦 | - | 17:45 | comments(0) | trackbacks(0)

2015.01.19 Monday

「出生前診断とダウン症」から意志決定を考える

医学科の学部生の心理学の講義で上記のタイトルをとりあげました。 


新型出生前診断については我が国でも2013年4月の開始から注目されており、国内37医療機関の実績の中で、2013-2014年4月までの1年間に7740人が利用し、「陽性」と判定された142人の妊婦のうち、羊水検査などで異常が確定した113人の97%にあたる110人が人工妊娠中絶をしていたことが話題になりました(例えば日本経済新聞)。


 講義では、妊婦自身が出生前に胎児の染色体異常のハイリスクを知り、その後の選択に繋がるプロセスについて、様々な立場や考え方、そしていくつかの海外の研究を紹介しました。


 「心理学の講義」としては、「自己決定」とされている行為が、言葉のニュアンス通り「主体的に選択する」という行為なのだろうか、という問いかけを学生たちにしてみました。


 私の専門である行動分析学という学問においては、「選択行動」というものは与えられた選択肢の条件と不随する情報、そして選択行動後の結果によって制御される行動ですが、今回の話題のように一度も行ったことのない「最初の選択」というものは、選択の前の先行条件である「情報提供」というものに強く依存するのです。 


つまり医師がどのような情報を与えるのか、妊婦以外の周囲の人々の意見や態度というものも、妊婦が置かれた立場や経済的要因と同様に「選択行動」の「先行条件」となるわけです。


 最近の研究結果によると、ダウン症に対して医師がネガティブな情報を与えているというものもありますし、医師ではなく「遺伝カウンセラー」にまかせてはどうだという風潮もあります。


 しかし遺伝カウンセラーの数は絶対的に不足していますし、その養成課程の中にダウン症の本人や家族に対して、直接接して理解を深める科目は含まれているのか、という疑問もあります。


 最後にダウン症協会が出している動画を学生さんに見てもらいました。 私自身すごく感動しましたものです。ぜひ多くの人たちに見てもらいたいものです。


もう一つこういう動画も見てもらいました。とあるタレントさんが自分の子どもがダウン症であることを告白した、ということをTVがとりあげたものです。番組の中身自体は家族の絆が描かれ、両親の言葉や思いも最後まで見た人にはしっかり伝わってくるものです。


しかし疑問に思うのは最初の「前振りの部分」です。ダウン症という存在に対して、必要以上にネガティブな印象を与える演出が音楽や字幕、語り口調、などで露骨になされていると感じます。


たぶんこれは母であるタレントさんの意図ではないでしょう。


この前振り部分は「視聴者のあこがれの存在であるタレントに降りかかった不幸」というネタを演出することで視聴率をねらうというメディア側の意図ではないかと考えるのは邪推でしょうか。

せっかくのしっかりした番組作りが、この前振りによって台無しになってしまっているように思えるのです。

たかが「前振り」ですが、我が国の多くの一般の人々は、先のダウン症協会の動画とこのTV映像のどちらの情報に触れやすいのでしょうか?


そして見た人は何を思うのでしょうか?










井上雅彦 | - | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0)

2014.12.30 Tuesday

強度行動障害施策の方向性

障害福祉サービス等報酬改定検討チーム第14回「障害福祉サービス等報酬改定検討チーム」資料において「強度行動障害を有する者に対する適切な対応」の加算要件の方針として以下の二つが示されています。


「施設サービス等において、従前、サービスを提供していた行動援護の従業者が、重度訪問介護の従業者に同行して利用者の居宅を訪問し、必要な指導・助言を行った場合等に加算により評価を行う」


「強度行動障害支援者養成研修を受講した職員の配置を要件として加算により評価を行う」

いずれもサービスの質を担保するためには必要なことだと思います。


井上雅彦 | - | 01:28 | comments(0) | trackbacks(0)

2014.12.05 Friday

最近臨床やってて思うこと

「こういう時はこうするもんだ」という原則を一般化していく研究的な作業も必要だけど、それに囚われすぎると臨床は窮屈な感じになったり、傲慢な感じになる。


ボクとしての理想は、対象者が幸福感を感じる行動、それが自発するような環境設定を一緒に考えながら発見していくこと。


現在の行動と環境をアセスメントし随伴性を仮説する。対象者に説明し、提案し、一緒に考え、最終的な独立変数を選択してもらう。その変数をやってみたり、やめたり、変えたりしてもらう行動実験を伴走しながら繰り返す作業。



最近、もうすぐ修了する学生さんたちに伝えたいこともあり、私自身の臨床での疑問点や悩ましい点を彼らに相談しながら進めています。


ケースカンファにて何時間も議論する機会がありますが、言語化することで自分の臨床行動をモニタリングでき、学生さん以上に自分が一番学んでいるのかもしれないと思うこのごろです。







井上雅彦 | - | 01:49 | comments(0) | trackbacks(0)

2014.11.20 Thursday

特別支援教育の「要となる」行動とは

特別支援だけでなく、すべての学齢期の子どもたちが学校で必要なスキルとして先生とのコミュニケーションスキルがあると思いますが、あまり注目されていません。


その中でも重要だと思うのは「支援要請に関するコミュニケーションスキル」です。


「しんどい時、困った時、わからない時に聞く」ということです。


高校、大学と上がっていくと教師が気づいて支援するというやり方には限界があります。したがって合理的配慮とよばれるものが必要とされてくるわけです。


また支援要請のコミュニケーション行動は、「言葉の能力がある」というだけでは自発できないのです。


それには早くから、この行動を引き出し、その結果として問題が解決され、行動が強化されていく必要があるのです。



現在の特別支援教育では、ユニバーサル教育環境から通常学級での「さりげない支援」や通級指導などでの「特別に提供される支援」が最初の段階にあります。


その後は、特別支援学級での「より濃密な特別支援」もしくは通常の教育の中での「自分でできること」が求められているように思います。


自ら問題解決するだけでなく、支援を要請したり、表明することを学ぶことは合理的配慮へ向けての、そして社会に出てからの自己権利擁護の実現へ向けての重要な学びであると思うのです。


これを阻むものは子どもたちと先生たちのコミュニケーションに対するあきらめです。


子どもたちから「相談しても仕方がない」「対応してくれない」と思われないために


子どもたちだけでなく教師もこれらの言葉を最大限に歓迎するということをもっと重要な行動目標にしていくことが必要だと思います

井上雅彦 | - | 10:17 | comments(0) | trackbacks(0)

2014.11.09 Sunday

インクルーシブ教育行動を自発するための環境要因とスモールステップ

2014年 日本教育心理学会シンポジウム「特別支援教育の展望:インクルーシブ教育の目指すべきもの ―ユニバーサルデザインと専門性―」で話題提供を行いました。文部科学省は共生社会の実現へ向けたインクルーシブ教育システムの実現のための特別支援教育の推進という報告を平成24年度にまとめていますが、これをどのように捉え、様々な障害においてどのように実現するかという観点からそれぞれの専門領域から提言する(鳥居深雪先生)というのが今回のシンポの企画主旨です。

私なりの感想を以下に書いてみます。

海津亜希子先生はResponse to Intervention/Instruction (RTI)を基にした,通常の学級における多層指導モデル(Multilayer Instruction Model:MIM 〔ミム〕)の開発者であり、読み能力についてのシステムと効果を紹介されました。

鳥越隆士先生は聴覚障害のある児童生徒のためのCo‐enrollmentプログラム(チームティーチング(通常学級担任と聴覚障害児教育専門の教員)により、手話と音声言語バイリンガル環境で聴児と聴覚障害児が同じ教室で学ぶ)を紹介されました。

佐藤克敏先生からは授業の中にユニバーサルデザインをどのように入れ込むのかという点で、指導案や授業作りの観点から紹介していただきました。

私はASDの特性やニーズは「読み障害」や「聴力障害」のように数値化しにくく、かつ不可視的なもので有り、個人差もあるという点でのアセスメントの困難性があることを指摘した上で、視覚化や感覚過敏性、ASDに合併しがちな書字障害に対する支援、文脈の読めなさに対してはルールの視覚的明確化、相談できる人の存在を合理的配慮として提示しました。

これらはASDの支援者であればだれもが考えることでしょう。

しかしなぜ広がらないのか?

これらを実現していくためには、教師のインクルーシブ教育を実現する行動を自発させ、強化する環境を学校の中にデザインすることが必要だと思います。そしてまず「なぜ自分たちの学校で広まらないのか」、その要因をアセスメントすることではないかと思います。

力業としては、インクルーシブ教育の実現を法的に義務化すること、ASD支援をMIMの様に教材化しパッケージ化すること、Co‐enrollmentプログラムのようにASDの専門家を通常クラスに入れること(スクールシャドー?)などでしょうか。

ASDへの支援をMIMのようにできるかは今後可能性を模索してみたいと思いますが、Co‐enrollmentプログラムのような形は予算的人材的に難しいようにも思います(あきらめてはいけないのですが)。

私は、まず「理想のインクルーシブ教育」を最初から目標にするのではなく、まず誰でもできるようにスモールステップで実現していくことが重要であると考えます。

例えば、教室内の物理的な環境設定からはじめる、教授行動の自己モニタリングの推進、クラスメイトへの働きかけ、保護者への働きかけ、各教科ごとのガイドライン作成と進んで、最終的に学校全体での取り組みに発展させるというものです。

今のままの教育システムの中でインクルーシブ教育を教師の努力義務にしていってよいのだろうか。教師が5時に帰れる学校環境、大学での養成課程の見直し、免許がないと教えてはいけない補助教員システムなどなど、教師の教育行動を制御する教育行政という環境要因を同時に見直していかないと、いつもの「専門性の向上」や「意識改革」という具体性のない話になってしまうことを危惧します。

インクルーシブ教育を考える場合、それができない教員を「できないという個人因子」のせい、にしてはいけないと思うのです。

インクルーシブ研究は、教師がインクルーシブな教育行動を自発するための弁別刺激であり強化刺激でないといけないと感じた次第です。

シンポに声をかけていただいた鳥居先生、河崎先生をはじめ神戸大学の準備委員会の先生方に感謝申し上げます。



井上雅彦 | - | 20:02 | comments(0) | trackbacks(0)